先日、「ルポ M&A仲介の罠」(著者:藤田知也)という書籍を読みました。M&A業界に警鐘を鳴らしたルシアン事件やトウキョウファーム事件について、当事者への取材を通じて生々しいやり取りが記録されるとともに、M&A仲介業界の現状や提言も示されており、M&Aの実務に携わる者として看過できない多くの示唆を与えられました。事件を振り返るとともに、経営者保証の現状とM&A業界全体の動きや買手に求められる責任について考えます。
ルシアン事件・トウキョウファーム事件
2つの事件に共通する特徴は、M&Aが成立するまでは若い後継者候補を連れて未来について語るが、ひとたびクロージングすると、流動化の名のもとに定期預金や役員保険などの換金可能な資産を解約させ、親会社となる買手宛に資金を送金させ、正確な入出金表の作成を指示します。必要な時に資金を戻すと説明しながら実際には送金せず、子会社が資金ショートを起こしてしまい、倒産に追い込まれる、という流れです。親会社となるルシアンやトウキョウファームは最終的に、資金繰り維持のために新たな会社を次々と買収する「自転車操業」に陥りました。
書籍には、手形決済日を迎える子会社(売手)と親会社(買手)の当日のやり取りやその後のやり取りが記録されており、どのケースでも親会社(買手)の返信は誠意に即レス、ただし送金はしない、連絡はパタッと途絶えるという点が共通していました。
そして、最も重要な点は、中小企業の売手オーナーにとって、経営者保証の解除はM&Aを実行する大きな理由になるにもかかわらず、成立したM&Aの多くで経営者保証が売手の代表から買手の代表に移行されなかったという事です。
中小M&Aガイドラインにおける経営者保証の扱い
この事件を受けて、中小M&Aガイドラインは令和6年8月に第3版に改定され、経営者保証の取り扱いとして、売手には初期段階で金融機関に相談すること、買手には売手からのM&A成立前の金融機関への相談申し入れを拒まずに誠実に対応することを求め、株式譲渡契約書における経営者保証解除・移行の位置づけを定めました。
具体的には、経営者保証解除・移行を義務と位置づけ、クロージング前に買手が金融機関から意向表明を取得し、必要書類を金融機関に提出し、代表者変更登記に係る必要書類を作成することで、クロージング日に代表者の変更登記の手続、保証の解除・移行手続を同時に実施することが記載されています。さらに、保証の解除・移行を確実に実施する手段として、買手の資金により返済し、借り換えを行うという方法も提示され、保証の解除・移行がなされなかった場合を想定した契約解除条項・補償条項の重要性を示しています。
また、中小M&Aガイドラインの改定を受けて、M&Aの業界団体であるMAAA(一般社団法人M&A支援機関協会)では、譲渡から60日以内に経営者保証を解除しない買手を不適切な買手として「特定事業者リスト」に登録する対応がなされています。
これらは、ルシアン事件・トウキョウファーム事件で経営者保証の解除がなされなかった原因が、株式譲渡と経営者保証の解除を(ほぼ)同時に行わなかったことにあるということ、その対策として経営者保証の解除は努力義務ではなく義務であり、確実に実行されなければならないということが読み取れます。
中小M&Aの構造
前提として、売手保護の背景には、買手は経験が豊富で、売手は初めてのケースが多いため、買手と売手に経験値と知識の差が生じ、売手は立場が弱いという構造があると思います。また、中小M&AにおいてはFAではなく仲介が多いことも理由の一つと考えます。
例えば、経験豊富な買手と経験豊富な売手にそれぞれアドバイザーが付き、それぞれがお互いの利益最大化に向けてM&Aを進める場合、経営者保証の移行について、買手アドバイザーがリスク回避の手段として経営者保証の付け替えを努力義務と主張することはあり得ると思いますし、逆に売手アドバイザーは経営者保証の解除を確実に履行するためにできうる全ての策を講じるべきです。買手も売手もアドバイザーをつける場合、上記のようにそれぞれの思惑があるため、折り合いをつけて一定の条件に着地するということになりますが、仲介の場合には、同一の仲介者が両当事者の利害関係を扱うため、FAの場合と比較すると、どちらかに偏った条件になってしまうことが性質上生じやすくなる側面があります。
売手保護の流れと買手が負う責任
ルシアン事件やトウキョウファーム事件は実際にあった話ですが、買手が問題であった極端な例であることは間違いありません。一方で、現実のM&Aの現場では、売手の情報開示不足や引継ぎ協力の欠如、表明保証違反など、売手側に起因する課題も少なくないのが実情です。そのような中、売手保護を強化する流れに対応するためには、買手は、時に専門家に頼りながら、さらに知識と経験を積み、対象企業を見極める目を養う必要があります。クロージング後に株主となり事業を運営していくのは買手であるため、買手は、M&Aにおける全てのリスクを負うという覚悟と責任をもってM&Aの検討を進める必要があります。
まとめ
売手オーナーが、自分の人生と共に歩んできた会社と従業員の未来を、目の前にいる買手に本当に託して良いのかという事を真剣に考える必要があることは、言うまでもありません。一方で、買手の詐欺的行為として取り沙汰されたルシアン事件・トウキョウファーム事件を発端に、中小M&Aガイドラインにおける経営者保証の扱いを始めとして、売手保護の潮流にある今こそ、買手が負うべき責任と、M&A検討時に求められる慎重な対応についても改めて注目する必要があります。
また、「ルポ M&A仲介の罠」を通じて、私自身、アドバイザーとして不完全であることを理解し、M&Aを実行する事業者にとって最適な支援者となるべく、研鑽していく必要があることを再認識しました。