バリュエーションと年倍法

 

中小企業のM&Aにおいて、対象企業や対象事業の価格を決定する際、年倍法を交渉価格の目安にすることがあります。年倍法は、バリュエーションにおいて理論的な裏付けがなされていない手法であり、専門家が株価算定の手法として年倍法を採用することは今のところありません。しかし、実際には年倍法を使ってM&Aの価格が決定されているという事実が数多くあります。

 

専門家が採用する株価算定手法

代表的な株価算定のアプローチは大きく3つあります。

コストアプローチ インカムアプローチ マーケットアプローチ
着目点 過去実績(純資産) 将来収益力(キャッシュ) 将来収益力(市場評価)
概要 対象会社の貸借対照表に着目し、資産および負債を評価することで企業の価値を算定する方法。客観性には優れているが、将来の収益獲得能力や企業が持つ固有の価値、市場での取引環境の反映は困難。 将来の獲得が期待される利益やCFに基づいて企業の価値を算定する方法。将来の収益獲得能力を価値に反映させやすく、固有の価値を示すと言われるが、予想する情報に差が生じるため、企業の実態をよりよく反映していると思われる算定方法の選択が必要。 対象会社と類似した事業や取引事例のある上場会社と比較することで相対的に株式価値を算定する方法。証券取引所に上場している会社の市場価格との比較のため、客観性・具体性を持った算定方法と言えるが、類似する上場会社がないような場合は算定が困難。
算定方法例 時価純資産法
簿価純資産法
DCF法
配当還元モデル(DDM法)
類似会社比較法
市場株価平均法

上記算定手法は、日本公認会計士協会より公表されている「企業価値評価ガイドライン」、中小企業庁より公表されている「中小M&Aガイドライン」他、数多くの書籍により理論的裏付けがなされており、各企業における株価算定書の中でも利用されています。
実際に、直近1年間(2022年7月~2023年7月)でEDINETに添付公表されている株価算定書のすべてにおいて上記算定手法のいずれかが採用されており、年倍法による株価算定結果は皆無でした。

 

それでも年倍法が使われる理由

年倍法が使われる場面は、EDINETで公表されるような上場企業や大規模企業のM&Aではなく、非上場会社を中心とする中小企業のM&Aにおいてです。その理由は、年倍法が簡易で分かりやすい方法だからです。年倍法について取り上げている書籍やM&A仲介会社のブログは数多くあり、それらの中で定義づけられている年倍法の算定式を要約すると、「純資産+利益の1~5年分」となります。使用する利益は、営業利益・経常利益・修正EBITDAなど様々です。過去の実績に着目するコストアプローチから純資産評価を持ち出し、将来の収益力に着目するインカムアプローチやマーケットアプローチから利益評価を持ち出すことで、過去実績と将来計画を価格に反映させた手法と捉えることができます。その算定式の分かりやすさから、M&Aの売手からも買手からも納得感を得やすく、M&Aがスムーズに進むことが多いため、M&A仲介会社を中心として世に広められた経緯があります。
実際のところ、M&Aにおける価格は、必ずしも理論的に求めた価値である必要はなく、最終的には売手と買手が交渉して合意した価格となります。
また、税務上の観点からも売手と買手が純然たる第三者である限り、合意価格を時価と考えて良いものとして実務上扱われています。

とはいうものの、現状において年倍法はあくまでも感覚的に理解を得やすい算定方法であり、理論に裏付けられた方法ではないため、専門家が株価算定書として報告することはありません。
今後、専門家必携の書籍や論文の中で年倍法が定義づけられ、理論的裏付けがなされ、専門家の中で市民権を得るようになった時に、年倍法が改めて日の目を浴びることになるかもしれません。